舞台となるのはほぼ「学校の図書館」に限定され、登場人物は4名で、ただひたすら本についてのお喋りを行っているだけの漫画といえば、いかにも退屈な漫画だと思われようが、不思議とおもしろいのが『バーナード嬢曰く。』である。
ストーリーというストーリーはないので「主人公」と呼ぶのが適切かどうかはわからないが、最初にクローズアップされるのは、「バーナード嬢」こと町田さわ子で、彼女は本を読むことを好むわけではないが――むしろ苦手なように見える――読書家キャラに自らを仕立てあげようとする。
「読書家は偉い」という、時代錯誤的な思想の持ち主なのだろうか。
「通ぶりたい」町田さわ子の発言は、実際の「通の人」「生半可な通の人」がよく言いそうなことを突いているところが、あるあるネタとしておもしろい。
たとえば「映画化前に、原作読んで、『原作のほうがいい』『原作ガー』って言いたい」などという発言は、私もときどきしてしまう(生半可なのに……)。
読書家が、生半可な読書家が病的だとすれば、照れもなく、堂々と「通ぶりたい」欲望を吐露する町田さわ子のほうが「健康的」に見えるのはそのためである。
悪徳である読書(ヴァレリー・ラルボー)に憧れるのは、彼女が実際は読書=悪徳から遠く離れている何よりの証拠だ。悪徳に染まっていない町田さわ子は、淫靡なところがまるでない。
自らの排泄を平気に小説に仕立てあげるところもそうだ。
「健康的な」町田さわ子と対照的に配置されるのは、ガチの読書家であり、SF好きの神林しおりである。SFマニアの鬱陶しさを体現しているのがすばらしい。
『バーナード嬢曰く。』に出てくる、唯一の「本物の読書家」である神林しおりが、一見常識人に見えながら、狂気に最も近づく瞬間があるのは、当たり前のことである。
なぜなら、この世界において、「読書家」とは健康から離れていることの証明でしかないからだ。
みんな大好きなグレッグ・イーガンを読み、そのわけのわからなさに「わたしはバカなんじゃないか」と悩む町田さわ子に、神林しおりは「みんな実は、結構わからないまま読んでいる」という真実を告げる。
これは鋭い指摘である。実際、グレッグ・イーガンのハードSFを理解しきることは難しい。このアドバイスは極めて真っ当なものといって差し支えないだろう。
神林しおりが狂気に近づくのは次の瞬間である。
「グレッグ・イーガン自身も結構わからないままに書いている」という仮説を述べ、作者と読者のあいだで情報が均衡しているという、テキスト論もびっくりの絶対法則の存在について滔々と語るのだ。
読書家に憧れる町田さわ子と、SFに憧れる神林しおり、さらに町田さわ子に憧れる遠藤、遠藤に憧れる図書館委員・長谷川の4人しか出てこない『バーナード嬢曰く。』は、しかし読書という行為について、楽しみながらも改めて考えさせられる漫画である。
そして、町田さわ子ははやくピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』を読むべきである!(2巻、3巻では、この本に触れられているのかもしれないけど)
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